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夢の舞台・オリンピックへ アスリートを育むマチ 幕別町

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〒089-0604 北海道中川郡幕別町錦町98番地

幕別スポーツ史makubetsu sports history

 幕別町体育連盟  【体連だよりのページへ戻る

 町内の各種スポーツクラブ、協会を統合して「幕別町体育連盟」が結成されたのは昭和30年4月。初代会長に一宮龍熊が就任した。この体育連盟は、各単位 クラブが会費を持ち寄って運営したが、ほどなく財政不振となり連盟の活動も低下し有名無実の存在となった。

 昭和33年4月、町が資金面を補助することで再建、会長に長尾所縁が選出されたが、ほどなく石田勝市、加藤光也とかわり、昭和47年から木村正夫となった。
 体育連盟では町民運動会のほか、昭和41年から10月10日を「町民体育の日」とし、スポーツ行事の推進力となり、昭和63年2月29日に30周年記念式典を開催し、これを記念して記念誌を発行した。


 
 幕別町軟式野球協会  【体連だよりのページへ戻る

 札幌師範学校出身の新田達道が幕別尋常高等小学校に訓導として赴任したのは大正6年3月28日、翌7年3月に着任した札幌師範出身の石井武夫とともに、新しいスポーツを幕別の児童生徒に教えた。
 新田は赴任と同時に、当時としては珍しい野球、庭球、柔道、陸上、スキーを、石井は剣道、書道、ソロバンを教えた。新田が指導した野球チームは、他の チームと試合を行うまでに成長し、帯広、池田、茂岩に遠征、かがやかしい戦績をあげた。幕別の野球の始まりである。
 新田は、のち身体検査に欠くことのできない座高計、虚弱児の体質改善に役立つ「太陽灯」を発明し、多くの学校で利用された。太陽灯とは、水銀蒸気を入れ た水晶管の両端に電気を通して放電させ紫外線を発生させる装置。ジュラルミン製の巨大な円筒形の施設の中で10数人がパンツ1枚になり、色メガネをつけて 照射を受けた。幕別小学校では昭和12年ころ設置していたが、いつころまで使用したか記録に残っていない。

 昭和3年、止若市街で雑穀屋をしていた長尾昇が、新田ベニヤ工場、統内治水工場から選手を選抜して「止若野球倶楽部」を結成した。長尾ののちは石黒某、 白坂久治、榎本孝雄、加藤登が監督として采配を振った。昭和17年に十勝を代表して札幌円山球場に駒を進めた止若野球倶楽部は、中村勲と西尾弘のバッテ リーで準決勝に進み、苫小牧王子と対戦して2A-1で敗れた。優勝は苫小牧王子であった。
 新田ベニヤの職員で組織したチームが全道の野球界に知られるようになったのは津川康郎が監督になってからである。昭和21年、復活第1回オール十勝軟式 野球選手権大会(帯広市営球場開場記念)に出場した新田チームは、決勝戦で帯広木材倶楽部を2A -1で破って選手権を獲得し、翌22年の第2回国民体育大会北海道予選の十勝代表となった。中村勲、金谷良のバッテリーで決勝戦に進み、室蘭代表の日鋼に 惜敗したが、小樽代表に13A-5、空知代表を2A-1、札幌代表には5-0で勝ち、全道に「新田ベニヤ強し」を印象づけた。当時の選手は津川監督のも と、主将杉山行雄、中村勲、金谷良、小野敬一、金須武、今本仁、大久保正司、杉森武雄、江口秀雄、深川勝治、字野昌則、山崎輝昭のほか坂田司、小椋梅男ら であった。

 止若野球倶楽部は、戦後、佐古敏雄によって再建された。再建はしたが物不足時代に倶楽部を運営する事は並大抵ではなく、揃いのユニホームを作るため、農 協倉庫のはきだめをもらい受けて豆よりし、この豆を佐古が大阪まで運んで売却、その金で落下傘の布地を買ってユニホームを作った。止若野球倶楽部は、のち 新田チームと合併して「ニュースター」と改称、各種の大会で活躍した。解散したのは昭和26年の秋のことである。

 戦後、急速に軟式野球が普及し、業種別大会が開催された。昭和24年、札幌市で開催の全道油糧野球大会に北海道合板化学工業株式会社(新田ベニヤの系列 で大豆油を製造)が出場し、優勝している。昭和20年代の後半は町内にも職場チームが結成され、新田ベニヤのほか亜麻会社、農協チームが各種大会に出場し 活躍した。昭和28年、社会健康保険野球大会道東地区大会で釧路三輪運輸を破った幕別町役場チームが全道大会に出場した。

 昭和29年、名門止若倶楽部が復活した。監督は佐古敏夫、助監督池浦光雄、主将兼外野手大久保正司、投手林照男、柏崎直己、小野隆男、捕手高橋耕三、和 田伸一、近藤俊一、内野手山崎輝昭、国枝正義、相原邦好、小野勉、小野邦宣、三好政男、外野手清水実、小尾和夫、佐藤清治、堂山登らであったが、雄図空し く、昭和31年のシーズン終了後に解散した。

 昭和16年から中断していた全国中等学校野球大会(現在の高校野球大会)も昭和21年に復活、昭和34年から北海道地域は北と南に分けられ優勝を争い、 帯広三条高等学校が北北海道代表として甲子園出場を果たした。選手14人のうち石原衛紀、矢野郁雄のバッテリーと選手の西尾孝治、星隆一、小田利雄、江口 善和、小野成義の7人は幕別町の出身である。

 なお、帯広柏葉高等学校野球部甲子園出場(昭和24年)の原動力となり、のち法政大学、北海道拓殖銀行野球部で活躍した品田栄太郎、主戦投手として国体 に3回出場した帯広営林局野球部の左腕・本庄博美、全国高校野球選手権、選抜高校野球大会と合わせて三度甲子園の土を踏んだのち東海大学に進学、卒業後、 母校の東海第四校の監督となった佐々木浩正も幕別町出身である。

 昭和30年に町民野球大会、43年から町民朝野球大会が教育委員会の主催で開催された。これらの大会が教育委員会の手からはなれたのは昭和51年。この 年の6月1日に組織した「幕別軟式野球協会」が以後、企画、運営している。この軟式野球協会の前身は昭和34年に結成した「幕別野球審判部」。部長の二川 辰夫は発展的解散した51年まで再任を続けた。事務局長は国枝正義、堀井守、逢坂勝己とかわった。軟式野球協会の貝森拓司も発足以来の会長である。

















長尾監督時代の止若野球倶楽部








止若ニュースター部員の記念撮影
(昭和24年)



全道油糧野球大会で北海道合板化学工業株式会社が優勝
(札幌市大通球場)



社会健康保険野球道東地区大会で幕別町役場が優勝
(釧路市営球場)

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 庭球  【体連だよりのページへ戻る

 昭和の初期、新田ベニヤ工場敷地内にテニスコートが造成されたのが、町内でテニスが盛んになった最大の理由。このコートから多くの選手を送り出した。
 昭和25年6月、止若在住の同好者によって「止若庭球協会」が組織された、会長に半井勇三、副会長には笹原登と篠田正男が就任し、各種の大会に選手を 送った。協会を組織する前の昭和24年から26年までの3年間にわたって、半井勇三、中村実、篠田正男、笹原登、芝木繁、藤島実、品田信、竹内幸男、鳥海 八郎、白川醇らによって、連続して十勝町村大会の優勝をさらった。特に竹内は全道硬式選手権を獲得し、全道の庭球界から注目された。

 また、中村実、藤島実、北原隆、牛尾毅、芝木繁、芝木勝幸、石橋次雄らによって、昭和29年から31年まで連続して十勝町村大会で優勝したほか、芝木勝 幸が昭和33年に全道で優勝、芝木祐之が37年から39年まで国体に連続出場を果たし、39年には全日本学生選手権と東日本学生選手権で何れも3位、40 年には東日本学生選手権で優勝した。このほか、十勝大会で優勝した選手では斉川進、牛尾昌平、横山諄一らがいる。

 昭和46年に牛尾毅、有沢隆則、末吉康弘、稲毛一郎、宇佐見忠士、逢坂幸次、宮本影、稲毛哲朗、佐古啓二、横川清、奥田仁らで「幕別町軟式庭球同好会」 を結成し、新田ベニヤのテニスコートを借りて練習を始めた。待望の町営コートが完成したのを期に、同好会では管内各町村に呼びかけ、昭和52年に第1回大 会を幕別町で開催、以後、各町村持ち回りで開催している。同好会では、昭和54年4月の総会で、名称を「幕別町軟式庭球協会」と改めた。初代の会長に同好 会長の芝木勝幸が選出された。芝木の後は有沢隆則、末吉康弘、棚田一晴、松村博義が歴任した。

 同好会で硬式ボール打ちを楽しんでいたのが次第に人数も増え「幕別町硬式テニス協会」を設立したのは昭和61年4月。協会発足記念大会を農業者トレーニングセンターで開催したのは6月14日。正副会長は中本準一、桂井貴広。












庭球も新田ベニヤから始まった
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 卓球  【体連だよりのページへ戻る

 昭和3年、幕別小学校の教員・大橋信二、藤田平治、それに笹原登らによって卓球が普及し、町内から多くの選手を輩出した。昭和12年、帯広市で開催され た全十勝卓球大会に大橋信二らのメンバーで団体優勝した。個人では笹原が十勝を制した。このほか、昭和22年度全北海道軟式・硬式卓球選手権大会で、両方 の選手権を獲得した長谷川清隆、この年の全日本中学校卓球選手権大会で優勝した若月寿治、帯広庁立女学校時代にプレーヤーとして名をうった秋山サチ子も本 町出身者である。

 昭和23年、幕別卓球協会が結成された。主将に長谷川清隆、副主将は若月寿治。選手に中川武夫、会田昭三、藤平景夫、国安宏昌、富西定美、今本和三、藤 根一也らを配して活躍、幕別町卓球クラブ結成の下地を形づくった。幕別町卓球クラブは昭和26年5月に結成され、会長に一宮龍熊、副会長に高島米蔵と笹原 登が就任した。このほか、新田ベニヤの卓球部も強かった。主な選手には土居徳朗、森田宣雄、小島善一、堀切武夫、竹下徳三らである。

 昭和54年10月に幕別町卓球協会が設立された。会長に森田宣雄、副会長に国安宏昌、藤平景夫、事務局長に小野成義が就任し、卓球教室を開催するなど卓 球の普及に努めた。昭和55年5月に幕別町卓球スポーツ少年団、58年に札内南小学校卓球スポーツ少年団、60年には小学生を中心とした幕別卓球クラブが 組織されるなど、若い選手の登場によって幕別の卓球史は塗りかえられつつある。特に第44回国民体育大会卓球競技少年男子の部、北海道予選会で優勝、国体 少年男子の部で3位となった駒井健一など優秀選手は多い。

 平成3年7月28日、9日に岩手県営武道館で開催された第4回ホープス卓球大会北日本ブロック大会で、幕別クラブの中山知美(札内南小6年)、上平奈波 (札内南小5年)、加藤美砂子(白人小5年)の3人は、決勝トーナメントで青森代表に敗れたが3位となった。











昭和21年の第1回全道卓球大会記念
(北見市)
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 相撲  【体連だよりのページへ戻る

 これという娯楽もなかった開拓時代は、何かがあると相撲大会が開 かれた。また、各神社の秋祭りでは相撲大会が最大の呼びものであった。大正から昭和にかけて、東京で相撲をとった経験のある広尾の堀田毅(元道議会議員) らによって、素人の相撲協会が結成された。相撲協会では番付を編成し、全道を股にかけて旅を重ねた。この協会に森脇忠吉が「岩ヶ淵」の四股名で大関を張っ ていた。森脇の全盛時代は昭和4年から5年にかけてであった。そのころ、青年相撲で名が知られた選手は館喜雄、白戸重蔵、榊原利一、それに途別の佐々木、 横山義雄、札内の木村吉市らである。昭和30年代になって沢田留吉、森脇仁、30年後半から40年代では館昌利、武藤利貞、山田一徳、佐々木房雄らが十勝 大会で団体優勝している。特に館は昭和38年から40年まで連続して個人優勝をなしとげている。

 昭和60年7月、十勝相撲連盟理事長・森脇仁の呼びかけで「幕別相撲連盟」が発足した。発足以来、堂前豊が会長の任にある。選手は森脇吉広、小師国光、 武藤利浩らで、特に小師は昭和61年の第37回全道青年大会相僕の部個人戦無差別で優勝、この年の幕別町開基90年記念式の席上、スポーツ賞が贈られた。







岩ケ淵(森脇)の出世相撲
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 陸上競技 体連だよりのページへ戻る

 大正5年6月15日、十勝軍人会と青年会が共催の第1回「全十勝 連合武術大会」が帯広競馬場で開催された。十勝の体育大会の始まりである。以来、年中行事となり、会を重ねるごとに種目も増え、青年たちの血をわかせた。 この連合武術大会は、十勝管内各町村にスポーツ・ブームをもたらし、幕別からも毎年多くの選手が参加し、また村をあげて応援した。

 大正12年及び13年の2か年間、高橋富治が5000メートルで全道大会に出場した。14年には橋本勝が岩見沢で開かれた全道大会の400メートルに、 15年には6月の幕別体育大会で1500メートルに優勝した服部間一は、7月20日の十勝連合武術大会で800メートルに優勝、8月15日に小樽で開かれ た全道大会に出場した。大正15年の十勝連合武術大会に出場した選手は次のとおりである。

 ▽300メートル=藤川久吉(途別) ▽400メートル=西尾嘉男(白人) ▽800メートル=服部間一(新和) ▽800メートルリレー=福家稔、福 家定雄(以上新和)、藤川久吉(途別)、清野清司(白人) ▽1500メートル=高橋邦雄(止若) ▽5000メートル=高橋富治(止若) ▽15000 メートル=坂口勇(咾別) ▽1600メートルリレー=西尾嘉男、佐藤軍治、佐藤栄治(以上白人)、橋本勝(糠内) ▽走高跳=福家定雄(新和) ▽砲丸 投、円盤投、槍投=福家清一(新和) ▽柔道=山田栄(糠内)

 昭和に入りスポーツ人口は更に増え、各種大会で幕別青年の名を高めた。昭和2年、坂口勇、花井豊が10000メートルで全道大会に出場している。昭和5 年6月22日、十勝連合武術大会の最中に止若市街で大火災が発生したことは別項で述べたとおりである。消防組員のほとんどが大会に出場していたため消火が 遅れ、記録的な損害を出した。この大火災が原因ではないが、翌6年の大会は中止となった。

 戦争の拡大とともに陸上競技より武術に重点を置いた大会となり、大東亜戦争への突入によって昭和15、6年で陸上競技は休止の状態となった。この時代の スプリンターとして米森喜代松、佐々木定雄、山本啓三、小野寺誠、大沢豊、板垣恭二らの名があげられる。特に幕別小学校教員の板垣はオリンピック侯補と なった。米森、山本、佐々木、小野寺、大沢は、何れも板垣の指導を受けた教え子である。戦後、板垣はコーチとして選手の育成にあたった。

 戦後の陸上は全幕別青年団体育大会で復活した。全十勝大会に選手を送ったのは昭和24年から。昭和26年7月、川西農業高等学校グラウンドで開かれた第 6回全十勝青年団陸上競技大会で松浦和夫が100メートルを12秒00で、鈴木洋子が同じく100メートルを14秒02で優勝した。鈴木は走幅跳でも優勝 している。このほか村田進、橋原加代子、宮本春樹、松田巧、梶尾勲、堀内喜典、山崎愛子らも活躍した。翌27年の大会で松浦は11秒05の大会新記録で二 連覇、800メートルリレーも幕別チームが1分44秒03で優勝した。選手は松浦のほか野越敬正、武田充、橋本常久であった。

 町及び教育委員会、体育連盟の共催で開催した「町民運動会」は昭和32年8月24日が第1回大会。以後冷害年を除き開催されたが次第に参加者が少なくなり、昭和42年に中止した。

 昭和44年から開催された道民スポーツ大会の第3回までの記録は残っていない。第4回大会以降の十勝大会を制し.た者は次のとおりである。
大須賀留美子(第4回・走高跳)、秋山雅子(第4回・砲丸投)、相原毅(第7回.・1500メートル)、本田久子(第10回・走幅跳)、柳橋敏雄(第13回・100メートル)、藤家博章(第15回・砲丸投)

 一方、団体では第11回大会、第14回大会を幕別陸上競技協会が総合優勝したほか、第15回大会、第18回大会では壮年男子が400メートルリレーで活躍した。
 昭和48年の北海道ソ連極東大会に出場した桝田光雄は1500メートルで4位に、同じく48年の国体北海道大会で本田敏晴が槍投で優勝、53年の十勝青 年大会走高跳で1メートル80を出した石川雅洋は、全道大会でも1メートル88を出して優勝した。

 幕別陸上競技協会は昭和50年の設立。横山一男、加藤淳子、藤家博章、岡久保幸、戸塚信、箕浦義則らの指導者によって小中学校児童、生徒の活躍は目ざま しく、平成3年8月3日、京都府西京極総合運動公園で開催された全国少年少女リレー競技大会女子400メートルリレーで、幕別小学校の「幕別W・ローマ ン」が準決勝53秒09、決勝では大会新の52秒51のタイムで優勝した。十勝の小学生が陸上競技で全国優勝したのは初めて。選手は六郎田恵、佐々木祥 子、川上由梨、伊藤由樹、佐藤梨沙の6年生トリオ。男子は52秒83で総合10位となった。W・ローマンとは監督の箕浦義則が尊敬する東独の陸上競技指導 者の名。この健闘を讃える会が8月18日に町民会館で開かれ、かつての金メダリスト南部忠平もかけつけて選手を激励した。

 1年前の8月25日にも同じ大会で幕別小学女子チームが大健闘している。400メートルリレーで1位とO秒46、2位とはO秒03差の53秒69のタイ ムで3位となった。選手は神馬早苗、菅谷亜加里、森智晶、東みどり、橋本裕子の5人(何れも6年生).。
また、平成5年8月29日に東京国立霞が丘陸上競技場で開催された第9回全国小学生陸上競技大会で、糠内小学校六年生の橋本猛は100メートルを12秒 58で3位、途別小学校5年生の高橋亜友美は同じく100メートルに出場し14秒15で3位となった。














































町民運動会も大きな年中行事だった















■400メートルリレーで全国優勝した幕別小学校の5人組

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 スキー 体連だよりのページへ戻る

 大正の初め南勢の福家兄弟(稔、定雄、英夫)によってスキ-が始められた。大正3年の冬、時の道会議員菅野光民は、スキーで広尾から忠類に出て、忠類か ら駒畠、糠内、止若を経て帯広に抜けた。糠内道路で菅野のスキー姿をみた福家兄弟は、積雪の中で.埋らず、しかも軽快に滑る姿に驚いた。福家兄弟がスキー を見た最初である。福家兄弟は、スキーの型に似た牛舎の板をはぎとり、父親の英一に叱られたのは、菅野のスキー姿を見てからのことである。のち、ヤチダモ の木でスキーを作り、スキー・スケートの本で滑り方を独学した。

 大正の終りに上美生で初のスキー大会が開かれ、福家兄弟を初め、新田達道の教え子が参加して上位を独占した。また、西猿別の山で、数度のスキー大会が開 かれた。その都度、山田毅夫が世話人として走りまわった。当時、活躍したのは福家兄弟、長崎幸一、亀井正雄、館喜雄らで、特に福家定雄は、現在の国体予 選、当時の神宮予選に3回出場、入賞こそしなかったが好記録をおさめた。

 大正13年、中稲志別の内藤宗一は関口道司にスキーの手ほどきを受けた。内藤は当時17歳。陣野原五郎らと、陣野原所有の白馬ケ丘でスキーを楽しんだ。 札内地区スキーの始まりである。その後、内藤宗一のほか陣野原五郎、西尾慶重、清野茂、小田善一、西尾正造、渋谷五郎、種村弥重作、古田一二三、植田らと 「札内スキー倶楽部」を結成し、;尾表馨葦種村弥希古田…一、塩田某らと、白馬ケ丘で大会を開いた。このスキー倶楽部から西尾弘など西尾兄弟、国体に出場 した梅田音市、高校スキー駅伝で2位になった内藤宗春、内藤泰治、内藤琢雄、生出忠雄、西尾勝らを出し、十勝のスキー界から注目された。

 幕別町が、国民宿舎幕別温泉ホテルの近くに「幕別スキー場」をオープンしたのは昭和45年12月8日。最大30度、平均18度の傾斜がある初・中級者む きのスキー場。翌46年12月10日には延長228メートルのリフトも完成した。強い西風で雪が飛ばされるなどの条件の悪さも、自衛隊に出動を願って雪踏 みでカバーし営業を続けた。昭和50年11月、大雨でスロープの一部が崩れて使用不能となり、これの復旧も困難なことから閉鎖し、リフトも撤去した。

 だが、スキー場造成時に設けたジャンプ台は、その後50メートル級に改造し、札内スキー少年団が利用した。第11回笠谷林全道ジャンプ大会兼第7回全国 ジャンプスポーツ少年団交流大会小学4年の部で2位となった酒井修三、同じく小学3年以下の部で優勝した山口和則、昭和61年5月22日に長野県で開催の 第5回全国ジュニアォリソピックスキー競技大会で優勝した太田裕二(札内東中)も、札内スキー少年団の出身。太田は第10回NHK杯全国少年ジャンプ大会 2位、第23回NHK杯全道少年ジャンプ大会で優勝するなど、全道、全国に通用する選手が着実に育っている。

 幕別スキー場にかわる「明野ケ丘公園スキー場」がオープンしたのは昭和51年。開基80年を記念し、かつての諏訪山の一部を買収して北側の斜面にスキー場を造成した。この諏訪山の西側は昭和10年代のスキー場であった。

 全日本スキー連盟公認指導員で、かつて白馬ヶ丘、白人スキー場で活躍した蓑島茂、笹原勝博、井沢政助らが中心となって「幕別スキー協会」を組織したのは 昭和46年1月20日。会長は梅田音市、のち牛尾毅、井沢政助、藤原寿美とかわった。幕別スキー協会では、スキー人口の増加、指導員養成を目的に活動し た。事業の一つであるスキー教室には町民のほか町外からも参加するなど予期以上の成果をあげたため、北海道スキー連盟に「スキー学校」の開校を申請、認め られて昭和61年1月13日に「幕別スキー学校」を開校した。学校長は井沢政助。

 幕別歩くスキー同好会は昭和55年11月28日の結成。厳しい気象条件を克服し豊かで楽しい冬の生活をおくる事を目的として組織した。初代会長は植地長 男、57年から高橋耕三。役員会で選定したコースを1月から3月まで月3回程度楽しみ、然別湖~糠平湖横断コースなど、十勝歩くスキーの集いにも参加して いる。





















町議会議員が幕別スキー場リフトの試乗会








夜間照明のもとでスキーを楽しむ人々
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 スケート 体連だよりのページへ戻る】 

 幕別のスケートは、やはり新田ベニヤ工場から始まった。昭和6年に新田の幹部がフィギュア用のスケートで楽しんでいる写真が残っているところからみる と、かなり早い時期からスケートを楽しんでいたようである。当時は一般の大人が気軽にスケートを楽しむ時代ではなく、子供たちが雪の上を滑る下駄ばきス ケートが主流であった。昭和12、3年頃になると長靴にバンドで取りつけるスケートで沼や川、馬橇で踏み固められた路上で楽しんだ。スポーツとしてのス ケートが盛んになったのは国体スケート大会が帯広市で開催されてからである。

 幕別を代表する選手は多いが、草分けは日中対抗競技会の代表となった武田美佐江である。武田美佐江は相川の出身。中学校時代に頭角を現し、帯広大谷高等 学校に進んだ。昭和37年2月の第10回日本第2部選手権大会で総合優勝して一部に昇格し、卒業後、長野の三協精機株式会社に入社した。昭和40年12 月、日中対抗競技会選考会で総合3位となり代表権を獲得、中国本土に渡った。オリンピック候補に選ばれたのは昭和41年2月。43年にグルノーブルで開か れたオリンピック冬季大会に出場した。

 昭和38年、39年の全十勝中学校大会で優勝した中条静子も相川出身。帯広大谷高等学校に進み、全国高等学校大会で1000メートルに優勝し、昭和41 年の国体では500メートル3位、1000メートルは優勝した。一部に昇格し昭和42年4月に三共精機株式会杜に入社したが、のち競技の世界から身を引い た。

 昭和47年2月、冬季オリンピック札幌大会で500メートルに出場した肥田隆行は幕別出身。現在の役場庁舎付近で少年時代をすごした。
 白人中学校時代に十勝の選手権大会で総合優勝した篠原雅人は千住出身。帯広白樺高等学校で活躍し、卒業後、王子製紙に入社した。オリンピック代表とな り、昭和59年2月8日開催のサラエボオリソピック冬季大会に出場、5000メートル24位、10000メートルは26位となった。

 このほか、第9回全道中学校スケート競技会に出場し1500メートルで優勝した村田達也、昭和57年1月に八戸で開催の全国高等学校総合体育大会スピートスケート500メートルで2位となった新保哲らがいる。





スケートを楽しむ新田ベニヤの幹部職員(昭和6年)


武田美佐江の激励会

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 柔道 体連だよりのページへ戻る

  幕別に、初めて柔道を持ち込んだのは大正6年3月、幕別尋常高等小学校に赴任した新田達道といわれている。その後、上級学校に進学した者は何れも柔道衣に 腕を通しており、かなりの人が柔道に親しんだようだ。大正15年7月、十勝連合武術大会で優勝した山田栄も、その一人であるが、同好会的な組織はなかった ようである。

 武術としての柔道は、戦後一時中断の憂き目にあったが、徐々にスポーツとして衡活をみせ、昭和24年4月に十勝柔道同好会が帯広に組織された。昭和31 年、途別青年団柔道部が設立されたのが、幕別に柔道が復活した最初である。発足当時の部員は13人、十勝柔道同好会に加盟した。支部長に田村政夫、部長に は安部政夫が就任し、坂上俊夫(途別中学校)を指導者に練習を重ね、昭和36年の全十勝対全釧路選抜対抗試合に横山武を選手に送り出すまでに成長した。小 林繁郎が糠内中学校長に赴任したころから、幕別一本に組織化する気運が持ちあがり、昭和44年9月24日に幕別町柔道連盟が発足した。発足時の役員氏名は 次のとおりである。

 ▽会長=山田栄 ▽副会長=小林繁郎 ▽理事長=安部政夫 ▽副理事長=小山章衛 ▽事務局長=折笠政弘

 翌45年5月「全幕別柔道連盟」と改称し、10月10日に第1回幕別町柔道大会を開催した。一般選手が参加した柔道大会は昭和49年ころまで。以後は高 校生、小、中学生のみの大会となり、また、連盟でも青少年の指導に重点を置き、多くの成果をあげた。全日本新人体重別選手権北海道予選で2連覇を果たした 椛本敏文、同じく78キロ以下で優勝した岡誠二、高校時代に活躍した三井政浩、道下訓央、岡田全博、小林信也は全幕別柔道連盟の出身である。

 また、東京目黒区の「市島道場」との柔道交流が、幕別町と目黒区の経済交流に発展したほか、連盟の指導者・金野忠の文通がきっかけとなって昭和48年8 月に上村春樹が来町し話題となった。上村春樹は昭和51年のモントリオールオリンピックの無差別級で優勝し、8月には金メダルを胸に幕別を再訪、青少年を 対象に「柔道教室」を開催し、青少年に大きな夢を与えた。昭和44年から会長の職にあった山田栄は昭和62年に名誉会長に就任、かわって安部政夫が2代目 会長となり、平成2年10月10日に、連盟の創立20周年記念式典を札内スポーツセンターで開催した。



























世界の王者・上村選手の指導を受ける少年団員

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 バレーボール 体連だよりのページへ戻る

 スケートの項でも述べたように、バレーボールも新田ベニヤ工場から始まった。終戦の翌年、まだ世相が混とんとしている昭和21年に、新田ベニヤ工場のバ レーボール愛好者によってチームが結成された。主な選手は山崎長一、北原信治、平塚治郎・昇の兄弟、根田辰雄、丸山啓三、袴塚一俊、鳥海八郎、本庄学らで ある。新田ベニヤチームは澱粉袋を改造したユニホームで活躍、新田チームの黄金時代を築いた。

 当時、十勝のバレーボール界のAクラスは新田ベニヤ、帯広郵便局、日本通運、鉄道工機部、教員団の5チーム。特に新田チームの活躍は目覚しく、昭和22 年、23年と連続して十勝選手権を獲得して全道選手権大会に駒を進めた。また、止若で試合が行われると多くの町民が盛んな声援をおくり、新田チームは町民 にとってスター的な存在であった。

 戦後の不景気、特に昭和24年、25年ころは全国的な不景気の嵐が吹きすさんだ。新田ベニヤも例外とならず退職希望者を募った。退職希望者のなかにバ レーボールの主力選手も含まれていたため、チームは小型化し、以後、これという活躍もなく、自然消滅の形となった。このころから職場を中心とした同好会 チームが結成された。新田ベニヤのほか幕別中学校、幕別小学校、幕別、札内農業協同組合、幕別高等学校などにチームが組織され、これらのチームで交歓試合 が行われた。これらのチームの中で頭角を現わしたのが小屋丁二率いる青年男子チーム。昭和38年から十勝青年大会に出場し、昭和40年優勝、41年準優 勝、42年優勝と、常に上位に位置し、全道大会にも出場した。青年男子チームの全盛期は昭和46年まで。以後、選手層も薄くなり、町内大会に参加する程度 となった。

 新田ベニヤチーム、青年男子チームなど対外的に活躍した割には「幕別バレーボール協会」が組織されたのは遅く、昭和54年に小屋丁二を会長に結成した。 協会では家庭婦人、いわゆるママさんバレーボールチームと少年団の育成に重点を置き、また発足以来、春季大会、公区対抗、全町選手権、全町大会を主催し、 幅広い年齢層が参加できるバレーボールの普及に大きな役割を果たしている。




一世を風塵した新田バレー部


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 剣道 体連だよりのページへ戻る

  戦前、銃剣術とともに盛んに剣道大会が開催された。小学校にも木刀を備え、上級生になると防具を着用して試合を行った。これら木刀、防具は終戦とともに処 分された。幕別で剣道が復活したのは昭和35年ころ。山口秀勝が中心となって稽古が始められた。昭和40年に相川に住んでいた全十勝剣道連盟理事長の松浦 俊行を相談役に「幕別剣道連盟」を結成し、会長に大久保正司を選出、同時に全十勝剣連に加盟し、山口が幕別支部長となった。2代目会長は昭和59年4月か ら山角芳信、63年4月から中橋定雄が支部長となった。

 昭和44年の第1回道民スポーツ大会に出場し活躍したが、翌45年、幕別町が主催し、幕別剣連主管の第1回全十勝剣道大会を幕別高等学校屋内体育館で開 催した。幕別剣運も選手団を組み、これに参加した。この幕別を会場とした大会に毎回1000人近い剣士が集い、十勝で最も大きな大会となり、十勝の剣道発 展に尽した。幕別での大会は12回を数えた。

 剣道連盟では発足以来、幕別及び札内に少年団を結成して稽古を積み、十勝管内大会で入賞するなど、著しく上達した。また、中学生以上の自主参加による土 曜錬成会は、練士6段の黒沼友一を中心に、札内スポーツセンターと本町武道館で1週間毎に会場を交替して稽古が行われている。

 戦後の主な選手は山口、大久保のほか千葉恵博、高橋秀昂、関根恭
一、橋本正司、山田一徳、妹尾英美、下直弘、寺岡徹男。札内では山角芳信、鳥羽誠市らで、ほかに高橋信吾、佐藤俊克、岡定一、田崎迪夫、二ツ山智、岩倉守、中橋定雄、吉田久治。女性では中橋敏子、松野洋子らである。












全十勝剣道大会の開会式

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 弓道 体連だよりのページへ戻る

 役場庁舎と町民会館が建設される前、幕別神社から東の坂を降りると矢場があった。「体育連盟30周年記念誌」によると、猿別市街が最も賑わったころ、金刀比羅神境内に稽古場があったと述べている。

 春日団地が造成されたとき帯広から転入した鈴木政一、昭和45年から札内に居住の池畠多加一郎、49年に札内の住民となった阿部寛司が帯広弓道協会に所 属し、市町村対抗大会には「幕別チーム」を編成して参加していた。「幕別弓道同好会」を結成したのは昭和51年。幕別に弓道場がないため帯広弓道協会に籍 を置いている。幕別チームとして昭和52年8月の第23回全十勝弓道選手権大会、61年8月の道民スポーツ十勝夏季大会で優勝している。選手は前述のほか 加藤哲夫、千葉寿、門屋宏、坂本龍也らがいる。



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 水泳 体連だよりのページへ戻る

  幕別小学校に町民プールが完成をみたが水泳人口は少なく、水泳の普及を目的に「水泳同好会」が結成されたのは昭和46年7月。会長に平井幸男、副会長に加 藤光也、理事長に水野晃夫を選出した。のち加藤にかわって大上長治が副会長に、水野の転出で佐藤昇が理事長となった。依田に温水プールが完成したことなど から「水泳協会」改組の声が高まり、昭和51年4月28日に役場地下厚生室で開催の総会で「幕別水泳協会」と改めた。また、役員のうち副会長を幕別、札 内、糠内地区から各1名選出した。

 ▽会長=平井幸男 ▽副会長=大上長治、小川義男、山田量 ▽理事長=佐藤昇

 昭和53年に、父兄からの強い要望から「幕別スイミングスクール」を開校し、高山正、八代芳雄、郷司清、坂本龍也、三好義隆らがコーチとなり指導、翌 54年には室蘭市で開催の大会で総合優勝したほか、第11回全十勝学童水泳記録会では、80種目のうち32種目に優勝し、話題となった。




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 アーチェリー 体連だよりのページへ戻る】 

 幕別町アーチェリー協会は昭和48年の設立。会長に勝山衛を選出した。協会では寿アーチェリークラブの結成(54年)のほか、昭和55年には子供から年 寄りまで参加できる大会「第1回北海道アーチェリーフェスティバルイン幕別」を主催した。この大会は、のち国体アーチェリー競技成年の部・少年の部最終予 選会を兼ねる大会に成長した。

 また、昭和49年からアーチェリーを必修クラブとした幕別高等学校の生徒の活躍は注目された。幕別高等学校では昭和52年以来、春季北海道大会で団体優 勝4回、準優勝4回、個人優勝4人。秋季大会では団体優勝4回、準優勝3回、個人優勝4人(63年4月現在)という成績をあげた。特に鎌田芳彰は昭和61 年の山梨国体で優勝、幕別高等学校の団体優勝に貢献したことが評価され「南部忠平奨励賞」を受賞した。鎌田の個人50メートル(36射)325点、30 メートル(36射)337点、合計662点は大会新記録であった。

 このほか、第9回秋季北海道高等学校競技大会で優勝した小林英樹、第10回大会優勝の斉藤剛、第10回北海道選抜東大会で優勝した宮部定信も幕別出身である。



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 ソフトボール 体連だよりのページへ戻る

 教育委員会が主体となってソフトボールの普及に乗り出したのは昭和48年に入ってからである。また、ソフトボールの正しいルールと普及を目的とした協会 設立の声が高まりをみせたところから、豊田実、松本純一、林照男、国枝正義、本保喜秀、小川義雄らが準備委員となり、昭和50年11月25日に「幕別ソフ トボール協会」を設立した。設立当時の公認審判員は2種2人、3種1人であったが、52年には3種に20人が合格し、協会の基礎を築いた。以後、教育委員 会に依存していた各種大会を協会の事業として企画、運営に当たった。

 協会では審判実技講習会のほかソフトボール教室を開催するなど正しいルールの普及に努め、また昭和58年8月13、14の両日の第38回国体北海道予選が幕別で開催されたが、これに協会が全面的に協力して成功を収めた。




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 バドミントン 体連だよりのページへ戻る

 倉井亮、角田有功、三井巖、谷友勝らによって「バトミントン同好会」を組織した のは昭和42年。会員の技術の向上に努めるとともに、昭和48年から教育委員会に協力しバトミントン教室を幕別と札内で開催し.たが、練習コートが足りな くなる程に参加希望者が殺到した。道民スポーツ大会に参加したのは50年から。男子は準々決勝まで駒を進めたが、女子は初陣で3位となった。その後、各種 大会で何れも上位に進出し、昭和61年には念願の優勝を果たした。また、昭和57年から開催の十勝ワイン杯には優勝4回、準優勝2回の成績をあげている。 バトミントン協会と改組したのは昭和55年4月28日。



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 登山 体連だよりのページへ戻る

 宮内伸夫、目黒正勝、笹島よしみ、橋本猛夫、三好信一、堀裕司、助川豊らで昭和 47年5月に発足した「山遊会」は、毎年6月から10月までの間、月に1、2回程度、道内の無理のない山への登山計画を立て実施した。昭和48年から教育 委員会と共催で「町民ハイキングの集い」を実施していたが、54年から山遊会独自で計画した「町民登山」を開催し、参加した町民に登山の苦しさ、楽しさを 体験させ、毎回多くの町民が参加する行事となった。



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 パークゴルフ 体連だよりのページへ戻る

 昭和58年5月、教育委員会教育部長に任命された前原懿は、社会体育の分野におけるコミュニティスポーツの取組が課題であるとの認識から、社会教育課に 「なにか面白いスポーツはないか」と呼びかけたところ、橋本正司(当時、社会体育係長)と羽磨知成(当時、体育担当主査)が日本レクリエーション協会を通 じて購入していた「グラウンドゴルフ」用具一式を前原に見せたのが事の始まりである。

 グラウンドゴルフは、昭和57年に鳥取県泊村の教育委貴会が中心になって考案されたニュiスポーツ。早速、町営野球場で試してみた印象は芳しくなかっ た。前原は、これをグラウンドから芝生へと、ゴルフに近づけ爽快感を加えようと考えた。結果は幕別運動公園にエンビ管による7ホールの固定コースの誕生と なった。58年6月半ばのことである。
 公園に穴を掘ってコースを造るなど、当時としては乱暴な発想であったが、相談を受けた公園管理担当の三井巌(当時、都市計画管理係長)は、これに共鳴し、上司に相談することを忘れ、穴掘りを手伝ってしまったことも、今日の普及発展につながった。

 翌59年には14ホールを造成、またたく間に同好者が増え、この年に同好会(会長、小野寺博昭)が誕生、11月4日に初の全町大会が開催された。60年 に入って、役場内に「グラウンドゴルフ振興会議」という任意の庁内横断的な職員組織ができ、企画・普及・管理など協調して振興を図った。この組織が力と なって4月下旬にはA・B各9ホール、726メートル、パー66の本格的なコースが完成した。現在の「つつじコース」である。6月2日に第1回全町グラウ ンドゴルフ春季大会が開催された。

 悩みもあった、グラウンドゴルフでは予想できないスティックやボールの破損がひどく、これは前原の依頼で業界トップクラスの合板技術を持つ新田ベニヤ工業株式会杜が試作を重ねた。のち、その作品は幕別町の一村一品となった。

 公園で競技するため、グラウンドゴルフを「バークゴルフ」と改称したのは61年2月。競技人属は増加の一途をたどり、また、他の市町村にも普及しはじめ たため、正しいパークゴルフの普及、発展を目的に9月8日に幕別町パークゴルフ協会を組織して会長に福田省市を選び、企画部(前原懿部長)と普及指導部 (平塚治郎部長)を設けた。9月17日の指導者養成講習会には、町内はもとより十勝管内の11町村から40人が参加した。

 62年3月、新田ベニヤは、スティックとボールを全道に本格販売することになった。60年から試作に着手以来、約2年、改良に改良を重ね、市販品初代の用具となった。実にスティックは7作目、ボールは5作目であった。

 7月19日には、第1回全十勝大会をつつじコースで開催した。春以来、振興会議では、国際パークゴルフ大会を開催しようと準備が進められていたが、大会 の受血として国際パークゴルフ協会を設立することになり、8月22日に設立総会を町営幕別温泉ホテルで開催し、会長に福田省市を選出した。総会には十勝管 内のほか苫小牧市、室蘭市、弟子屈町などから30人が出席したほか、長野県志賀高原旅館組合、日本レクリエーション協会主幹(千葉県)などからも委任状が 寄せられ、加盟団体数は39に達した。国際協会の本部事務局は教育委員会内に置き、年1回の国際大会を発祥の地・幕別で開催と決めた。

 この日(8月22日)、幕別を訪れた北海道知事・横路孝弘は、つつじコースで4ホールではあったが、パークゴルフの体験をした。これが縁となり、平成2 年の第4回国際大会に優勝カップ(知事杯)が寄贈され、以来持ち回りとなっている。翌23日、国際パークゴルフ協会設立記念「第1回ブリヂストンスポーツ 杯パークゴルフ国際大会」が、つつじコースと完成間もないサーモンコース(パー132)で開催された。参加した外国人は28人、東京、大阪などの町外者 83人、町内84人の計195人。参加国はアメリカ、中国、カナダ、フィリピン、イラク、スリランカ、日本の7か国だった。

 9月27日には、第1回北海道オープンが開催された。民間パークゴルフ場は、昭和63年の駒野コースが第1号、6月12日にオープンした。コースの全長は700メートル。

 パークゴルフは年齢に関係なく手軽に楽しむことができること、また、63年にバークゴルフと健康の関係が実証されて、普及への追い風となった。平成元年 に「はまなす国体」スポーツ百選を受賞、「現代用語の基礎知識」にパークゴルフが掲載されるなど、全国的にも注目されるスポーツとなった。この年、国際協 会は「クマゲラマーク」を商標登録した。

 平成2年、用具の呼称を「スティック」から「クラブ」に改めた。

 平成3年、町は鋳物製のコース表示板と記念モニュメントの製作費460万円を予算化し、コース表示板は八月にサーモンコースに18基設置した。また、モ ニュメントは高さ1.2メートル、幅0.6メートル、奥行き0.4メートルの御影石製。表面には「PARK・GOLF」のロゴとシソボルのクマゲラマーク を中心に、「公園にコースをつくるという逆転の発想で始まりました」など、パークゴルフの由来を日本語と英語で綴ったパネルを上部に取り付けた。除幕式は 平成4年5月31日に実施した。

 これより先の平成4年1月28日、文部省主催の「生涯スポーツコンベンション92」が東京・京王プラザホテルで開催された。全体会・スポーツのまち フォーラムで、「パークゴルフの開発をとおしてのまちづくりしと題して、前原(当時、教育委員会教育長)が5分間のビデオ紹介と30分の発表をした。参加 者は約千人、反響は大きく、以後、全国から間い合わせ、視察などが一段と増え、特に教育委員会は対応に追われた。

 平成5年はパークゴルフが誕生してからちょうど10年目に当たり、4月にバークゴルフ振興係を教育委員会に新設し、係長に浅田輝善が発令された。10周 年記念式は9月11日、十勝幕別温泉緑館コンベンションホールで開催された。林照男町長は「夢はでっかく、オリンピック種目」と挨拶、来賓の横路北海道知 事(代理) と石川文部省体育生涯スポーツ課長が祝辞を述べた。のち、国際バークゴルフ協会と用具の開発、改良に努力した㈱ニッタクスに感謝状、パークゴルフに最も貢 献した各新聞社、各テレビ局に記念品を贈った。午後4時から司会・前原懿(教育長)、パネラーに御坊田裕巳(帯広開発建設部次長)、清水孝悦(国際パーク ゴルフ協会指導普及部長)、渋谷勝雄(上土幌パークゴルフ愛好者)、疋田桂(国際パークゴルフ協会オホーツク支部長)、三上和夫(富山県射水郡小杉町 長)、コーディネーター・小島明将(財団法人日本レジャースポーツ振興協会事務局長)でパネルディスカッションを、午後6時からレセプションを開催した。

 翌12日には10周年記念行事の一つ、7回目の国際大会を「つつじ」「サーモソ」のコースで、また、5月から農業者トレーニングセンター北側で工事を進 めていたクラブハウスが8月30日に完成し、「クマゲラハウス」と命名しオープソした。この施設はカラマツなど国産材で建築したもので、平屋建て170平 方メートルあり、テープカットののち一般に解放した。

 平成6年6月9日、富山県で開かれた「富山国体準備委員会」の総会で、6年後の西暦2000年(平成12年)に開催の第55回国民体育大会(富山国体) に「パークゴルフ」を公開競技として採用することが決定した。富山県には小杉町を中心に4か所のコースがあるが、富山国体でパークゴルフ会場となった富山 市の西隣に位置する下村では、平成6年に約6億円をかけて整備する公園内に18ホールのコースが造成された。

 読売新聞北海道支社の第2回「北のくらし大賞」に、幕別「パークゴルフの町」が受賞した。北国の風土に合った豊かな生活文化や環境づくりに取り組んでい る個人や団体を顕彰する「北のくらし大賞」の選考会が、平成6年12月8日に札幌・東急ホテルで開かれ、全道各地から応募のあった131点のうち、予備審 査を通過した23点を対象に選考作業が行われ、人気(ひとけ)のない公園を人でいっぱいに変容させ、三世代が一緒に遊べるスポーツとして産声をあげたバー クゴルフが、「その土地にとどまらず全国的なものに広がるのが地域おこしの条件」に合致したことが受賞の理由。授賞式は平成7年1月17日に同ホテルで行 われ、正賞と賞金100万円、副賞として白本航空から千歳・沖縄往復航空券2人分が贈られた。

 平成7年9月にパークゴルフ実力日本一を決める「第1回全日本選手権大会」が、発祥の地・幕別で開催され、大会の模様を北海道文化放送(UHB)が1時間番組で放映した。




国際パークゴルフ協会設立総会



記念モニュメントの除幕式

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